安楽死について

100歳と10歳の死を想像したとき、どちらの命との関わりが深いかによって悲しみの質も深さも変わる。
自分の親や祖父母の死と、遠い異国の内戦で亡くなる子供の死とでは感じ方が異なる。
人間に限らずとも命に代えは効かないし、その生命体の命はそれ以上でもそれ以下でもない。命の価値は関係性と愛情によって違って見えるだけだ。

私は自分の命が自分だけのものと確信しているし、全ての命が「個」であると信じている。
この考えの大きな理由の一つに「親とは〇〇である、子供とは〇〇である」といった思い込みと刷り込みからの解放ということがある。
例えば自分の子供が重い病気になったとして「代わってあげたい」と思ったとしても、「親ってそういうもの」という考えは危険だということ。全世界の親の総意ではなく、その人の性質と愛情の深さゆえの感情だということ。

安楽死を考えるとき、あくまで「自分の死」として考えないと話は進まない。
どんなに愛情深くつながっている親族であろうと、自分以外の個体の命に対して責任を負うのは難しい。
「自分だったらどうするか」という大前提での議論が必要だ。

私は権利として安楽死制度が必要だと考えている。
安楽死する権利を得ることによって、安楽死しない権利も得られるからだ。
安楽死の権利があることによって自殺を思いとどまれるケースも出てくる。

私は17歳で手術をした1年後、再発の疑いが出た。
検査結果が出るまでの年末年始を挟んだ1週間は自殺のことしか考えなかった。どうやって死のうか、そればかりを考えて1週間を過ごした。
再発転移していたら確実に思い描いた方法で死んでいたと思う。

安楽死制度があったらどうだったか。
再発転移していたとしても、きっともう少し頑張る気持ちになっていたのではないだろうか。
タラレバに意味はないと言われるかもしれないが、そもそも死はタラレバでしか考えられない。
だからこそ自分自身のこととして考える必要がある。

自分の死は、一生で一度しか経験できないのだから。